よくある話だけど、
結末の説明がさらに進化していて超納得というか、
共感したので、シェアする。
俺がなぜ、誰もが望めば半自給・ナリワイ(小商)できる社会へ、
というのかは、
こういう理由からだ。
〜 以下転載 〜
「ある漁師の話」
常夏の島にある1人の漁師がいました。
その漁師は、毎日海に潜り数匹の魚を獲るのが日課でした。
ある日、漁師が魚を担いで海から上がると、
都会から観光で島に来ていたビジネスマンに出会いました。
ビジネスマンは聞きました
漁:「そうだよ」
ビ:「その魚はどうするのですか?」
漁:「これから家に帰って、家族や友達と酒でも呑みながらたべるよ」
ビ:「なるほど、しかし、惜しいね。君にもっと船があれば沢山の魚が獲れるはずです」
漁:「魚を沢山獲ってどうするだ?」
ビ:「貴方が網元になって、沢山の人を雇い、魚を売って儲ければ良いではないですか」
漁:「それからどうする?」
ビ:「お金を貯めて大きな船を買い、もっと沖から更に沢山の魚を獲って売るんです」
漁:「なるほど、それから?」
ビ:「魚は、君が経営する加工工場で缶詰にして、世界中で売ると更に儲かります」
漁:「世界中で魚を売ってどうする?」
ビ:「そしたら、船や工場は人に任せて、僕みたいに都会で楽に暮らせるようになります。
そして、会社を上場して、沢山の富を君は手にいれるのです!」
漁:「なるほど、で、その富で何をするだ?」
ビ:「そうですね。常夏の島にでも引っ越して、
釣りでも楽しみながら家族や友達とゆっくりした時間を楽しむのはどうでしょう!」
漁:「なんだ、それだったら、今のままでいいさ。
何も沢山の魚を殺したり、沢山の人を雇い管理したり、
裏山を潰し工場をたてる必要はないよ」
と言って、漁師は家族や友人の待つ家路につきました。
これが、「小さい方からの哲学」ですね。
資本主義の社会では、
勝つためになんでも大きく、速く、高く、多くと一面的な価値観しか教えません。
しかし、そんなことをしているから資源もなくなり、格差は広がり、
人間関係は気薄になってしまうのです。
小さい、少ない、遅い、弱いをもっと
積極的に求めてもいいいのではないでしょうか?
人間、最後は身一つです。
持てる物も、胃袋の大きさも、走る速さもあまりかわりません。
それで良いじゃないですか?
家族や友達と一緒に食べる釣ったばかりの魚に勝る幸せはなかなかありませんからね。
〜 転載ここまで 〜