津波被災地の写真です。
東松島地区(野蒜など)
これはゴミ捨て場でなく、
津波によって流され、
引き潮で集積されたものたち。
ひとつの集落が全て流されて、
1キロ先までこの状態が続いています。
家の土台だけ残されて、全てが流されています。
家がこうして流されています。
小学校の校舎入口。
上の時計は午後2時47分で止まっていました。
この入口に波が流入して、
流された車が積みあがっています。
自然には逆らえません。
言葉を失います。
一方、津波に至らなかった地域は、
インフラ(電気、上下水道、ガスなど)が途切れていていましたが、
徐々に復旧してきていました。
家やビルの倒壊ほぼありません。
屋根が落ちている家を数件見たのみです。
本当に、
マグニチュード9.0だったのだろうか?
そう思いました。
地震直後、マグニチュードは上方修正されて9.0になりました。
地震学者によれば、8.2~8.3くらいだったとの声があります。
原子力損害賠償法では、
想定を超える災害の場合、補償を免除するような文言があります。
原子力を推進するために、
「想定外」だったという流れを作るための意思が働いたのではないか?
という疑いが沸いています。
私の思い違いだといいのですが・・・
山形県鶴岡から宮城県入りしたのですが、
鶴岡のお百姓さんたちには、
たくさんの学びを頂きました。
お米農家さんたちは、
お米を作れど作れど赤字。
それでも続けるのは、
先祖代々の土地を絶やすわけにいかないという意志だと
おっしゃっていました。
私たち消費者は、
お百姓さんの努力に対して、
ちゃんと対価を払っているでしょうか。
農が滅べば、国は滅びます。
そうした、
日本で一番現金収入が少ない農家の方々が、
震災翌日には支援に動いていました。
山形では、
3000軒以上の農家さんがお米を提供し、
トラクターなどに使う軽油やガソリンをも提供している方も
たくさんいらっしゃいました。
農家さん、お百姓さんの逞しさ、強さ、優しさ、分かち合いの精神に
コンクリートの上に住まう自分の小ささを感じました。
都市にいてカネがある私たちは、
水すら確保できず放射能の恐怖に右往左往しました。
自らの命を保障し、
更には他者を救うは、
都市でなく農山漁村の暮しだと思います。
3.11後の世界の価値観は、
都会からローカルへ!
向村離都だと思います。
レゲエの巨匠、
ボブマーリーの言葉です。
「田舎に散ろうぜ!」
本当に、そう思います。
2010. 10.10 小生初の著書
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