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匝瑳市内や接する多古町では
城郭(丘上にある土塁式の城)による地域おこしが動き出していて、
お陰様でこの地の中世の歴史がわかってきた。

数日前のブログでもこの写真を使ったが、
城郭地域おこしについて触れている

かつて昔、

おそらくは大和朝廷以降、
そして中世以降まで、
銚子沖は潮流激しく海路として遭難の危険が高いため、
九十九里から川や内海を通って茨城沖に通じた。

奈良・京都・鎌倉など、
時の都と東北エリアの往復に、
必ずこのエリアを通ったのだ。

日本の最初の武士であり、
最初の征夷大将軍の坂上田村麻呂が
大和朝廷の命を受けて東北征伐に向かうにあたり、
(東北で森の民として暮らしていたネイティブの蝦夷民族は、
   中央の野蛮で勝手な言い掛かりにて侵略されるわけだから、
     私は東北以北にいたネイティブの蝦夷族にこそ、
       シンパシーを感じている。
         歴史は常に権力者側から語られてフェアでない)
この匝瑳で初陣式を挙げたと聞いて、
なぜこんな場所で?とずっと思ってきたが、
やっと合点が行った。

よってこの地は、
この国の海路と陸路の重要拠点として、
特に中世に覇権争いが絶えなかったゆえ、
城跡が非常に多いわけだ。

日々田んぼへの往復や古民家農泊Reへの往復で
車を走らせながら横目に見ている小さな川(借当川/境川)や
一級河川の栗山川が、
日本の大動脈だったと思うと、
いにしえへのロマンを感じずにはいられない。

さらに面白いことには、
古民家農泊Reが所在する多古町の島集落は、
船荷を割符(わっぷ)に変える場所、
今でいう金融センターであった。

割符とは、
中世において遠隔地間の金銭取引などの決済のために用いられた証紙で、
日本における為替の元。

鎌倉時代は荘園からの年貢(米)を実際に運ぶ手間を省くために使われ、
室町時代には商業取引の決済手段へと発展していった。

ゆえに戦国末期に千葉氏の嫡流が今の千葉市の本城から奔走してきて、
この島の城で自刃した歴史的事実にも納得する。
ここまで逃げてきた理由は、
豊富なコメの量だけでなく、
財政基盤があったからだ。

面白い!!!

(情報提供は小室裕一氏)

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